広島シティーチャンネル

6月27日
森山佳郎前サンフレッチェ広島FCユース監督

2002年夏、同ユースコーチから監督就任。当初は半年の暫定的な監督就任だったが冬のユースカップ準優勝でそのまま留任。2012年シーズンまでサンフレユースを率いて黄金期を作る。

03年夏のクラブユース選手権、冬のJユースカップで二冠達成。04年には森脇良太、高萩洋次郎らを擁し高校チームとクラブチームが一同に会する高円宮杯全日本選手権優勝。

03年に始まったプリンスリーグ中国では7大会中6度の優勝。2011年から始まったプレミアリーグウエスト(西日本トップリーグ)でも2連覇達成。同時に高円宮杯は3連覇中。

森山監督がもたらした功績は、単に広島の1クラブという範囲にはとどまらない。その指導内容は、精神面を重視して「出し切らせる」ことを重視しているが、同様の指導方針を掲げる指導者がJの育成組織に増えている。

森山流のアプローチはしばしば「部活的」と称される。本人も「サンフレッチェ高校と高体連の先生に言っていただけるのは一番の褒め言葉」と誇りにしている。

「気持ちには引力がある」をキーワードに練習は厳しく、選手をとことん追い込んで行く。そして「誰ひとりとして見捨てない」。ちなみに1年生が3年生に話しかける時も「先輩」:ではなく「君づけ」で呼ぶ。さらに「監督」ではなく「ゴリさん」である。

森山前監督は自身を「馬鹿ポジティブ」と称する。森山佳郎、45歳。サンフレッチェ広島初代メンバーで、ステージ優勝のピッチの上をかぶり物で駆け巡った人物に内在する「指導者の資質」に迫る。

だいたい1時間半ぐらいで私の生い立ち、Jリーグでの略歴、それからみなさんが興味をお持ちのユースでの指導法などについてお話ししたいと思います。

まあ、いくら時間はあっても足りないような話がたくさんありますので、うまくいきますか、どうか…。

私は熊本市立の小学校の3年の時にサッカーを始めました。でもサッカーがあまり好きでなくなって熊本市立の中学に入学した時にはバスケット部に入りました。

でも、入部してそう日にちも経たないある日、体育館のドアをガラガラ…と開けているとたまたまグラウンドでサッカー部が活動する様子が目に入ったんです。

その時、思いましたね。「あれ、俺って今、どうしようとしているんだろう」とね。でも、もうバスケ部に入っちゃってますから、それからは悶々とした毎日を送ることになりました。

そうして1年の間はバスケ部で活動したあと、先生にもお願いして、いろいろと配慮していただき、中2からはまたサッカーをやることになったんです。この時、改めて「サッカーは絶対に離してはいけないものなんだな」と思い知らされることになりました。それ以来、こうしてずっとサッカーに関わりながら生きてきました。私にとっては決してムダな1年ではありませんでした。

ただ、中学のサッカーですからそんなにレベルが高いものではありません。ですから高校(熊本県立第二)に進学した時には「よし、今度は高い技術を学ぼう!」と張り切っていました。

ところが、いざグラウンドに行ってみると、指導者がいない…。で、よくマンガに出来るようなキャラクターの顧問の先生はが言うには、「君らでやってくれ、自分はサッカーのこと、よく知らないから…」ということで愕然…。

おいおい、せっかくいいサッカーを学ぼうと思っていたのにどういうこと!とも思いました。でも指導者なし、ということは自分たちで考えて練習するしかない訳で、実はその時の経験がユースチームの指導や今の自分に大いに役立っている、と感じています。

さて、中学、高校ときて次は大学です。私が高3の時に、ちょうど鹿屋体育大学(鹿児島県鹿屋市に本部を置く国立大学で 1981年に設置)ができたんです。それで教員になりたかったし、ここだ、と思って、入試案内にあるハガキを切り取って受験申請しました。

するとある日、大学から電話があって「もう申込みはは終わっていますよ」ってさらっと言うんです。おいおい、何言ってるの、こっちはちゃんと書いてある通りの期日までに出してますって…。

ところが電話口の人が「それっていつの案内ですか?」って聞くもんで、よーく見て見ると、なんじゃこれ!2年も前のヤツじゃん…、と…。

それで浪人生活1年!そこからまた1年、サッカーなし!それで体育の先生を目指して筑波大へ進学したんです。

体育の先生を目指して筑波大へ。そこはもうすごい世界でした。井原正巳、ゴン中山、ほんとなら私の同級生のはずだった人たちがすでに活躍していたのです。

1こ下になってしまった私はビデオ係を仰せつかい、さっそく試合の録画です。長谷川健太さんもいて、私はビデオを録りながら“ウォー”“すっげえ”ともう声出しまくり。いや本当に見ているとそんなプレーの連続なんですよ。そして、大学に戻ると即、正座させられて「おっまえ、うるせーんだ!」と、ね…。

大学ではAチームからDチームまであって、全部で部員は120人でしたからひとつのチームが30人ずつ。私はCチームで61番目から90番目でしたから相手にされないレベルで、高校時代のこともあり、すごい先生に教えてもらえるんだと思っていたら、Cチームの先輩たちに教えてもらうという状況でした。

Cチームの練習はあと回しですから、もうグラウンドはボコボコ…。けっきょく私が試合に出たのはAチームになった4年生からでした。

Cチームの練習は遅くから始まり、照明が消える午後9時には終了です。当時、私は6万円の仕送りしかしてもらっていませんでしたので、そのあとは深夜営業もあるレストランでアルバイトです。

こんな私ですから、厨房に入ってもフライパンの中にあったはずの食材をボトリ、と外にひっくり返すなど失敗だらけ。ただ、衛生面には厳しい世界ですから、少しでも賞味期限を過ぎた食材や当日作られたモノはもうお客さんには出しません。

それをいただくことが多かったので、はっきり言って食事面はずいぶん助かりましたね。それで私が食べきれなかったスパゲティの材料などを寮に持ち替えると、チームメートの方はハンバーガーを持って帰っていて、そこで物々交換です。

だから、私はマツダに入社して、社会人になって初めてお店でハンバーガーを食べた時、味の違いにびっくりしたんです。冷えていた奴ばっかり食べていましたからね…。

大学卒業後は、筑波大の先輩でもある今西和男さんに誘われてマツダに入社しました。それから1年後にはサンフレッチェ広島が誕生して私はJリーガーに…。Jリーグスタート2年目の1994年には前期優勝の場に立つことができました。

この年、ファルカン監督の日本代表にも呼ばれたのですが、これはもうたまたまというか、広島でアジア大会があった年でもあり、国際Aマッチ7試合に出場…。ラッキーだったということです。

私は1991年から2000年までの間にリーグ戦166試合に出場して5得点、カップ戦は36試合で2得点。まあ平均すると年間20試合というところでしょうか?言ってみれば年間の試合数の半分ぐらいしか出ていません。

サンフレッチェに始まり、フリューゲルス(すでに消滅)、ジュビロ、最後はベルマーレ…。最後は1年でクビ、でした。

サンフレッチェ、フリューゲルス(すでに消滅)、ジュビロ、ベルマーレ…。その中ですごかったのはやはりジュビロ磐田です。ゴン中山もいて、名波、藤田、服部、福西、ドゥンガもいて鈴木秀人もいて、当時日本代表より強いチームと言われていました。

私は2月に入って9月までベンチにも入れないから遠征にも行けない。そんな状況でした。

でも、どっかで一度はチャンスがあるだろう。そのチャンスをつかむことができれば…、とずっとそういう日が来ることを信じてやっていました。

そうしたら9月のナビスコカップでその時がやってきたのです。代表組がいなくなり、さらに同じポジションの選手がケガをしたため、いきなりスタメンでの出番が回ってきました。

そりゃあもう、私は大変な気合いの入りようでした。相手はレッズ。スタンドは真っ赤っか。何かもう私は赤を見て闘牛のようにフンガ、フンガと興奮した状態でピッチに立っていました。

ジュビロが前半1点を取ったあとの、前半終了間際でした。

相手がGKを抜いてあとはもう流し込むだけ、という場面で、間に合わなきゃ良かったのに興奮状態の私はその後ろから相手に間に合ってしまい、そこでPKになって退場…。けっきょく後半でひっくり返されて、私はA級戦犯、永久追放…!

その時はいろいろ考えました。そして、自分自身の価値をどう考えるのか、と。どっかが拾ってくれるんじゃないかな、とも思いました。

そういう時に山本昌邦さん(現在はNHKサッカー解説ほか)からベルマーレを紹介されたんです。

当時のベルマーレは経営危機に直面して中田英寿ら主力を全部放出していました。それで私がキャプテンを任せてもらって…、1部から2部に落ちて引退、です。その時は両方の足をやられていて生活するだけでも支障がありそうなので、片方の膝だけは手術しました。

サッカー選手の契約は戦力外の場合でも契約書をクラブ側からもらうことになっているんです。ある時、もらった紙を見てみたら、金額のところに「0」。ゼロかよ、おい!ってそういう感じでした。

引退後はサッカーの勉強をしようと、海外研修にも行きました。行く先々ではせっかくなのでどんどん質問して話をいろいろと聞くようにはしていました。

ドイツに3回、イングランドに2回、イタリアも2回、あとはアジアの名前もあまり知られていないような国などにもあちこち行きました。どこに行ってもその国の指導者たちはだいたい同じことを口にします。

Determined&Dedication

決意、決心、覚悟と献身、ひたむき。チャレンジすることの大切さ。

ユース1年目の槙野(現レッズ)はその最たる例でしょう。いきなりウェズレイを練習中に蹴って、にらまれたらまた蹴って…。あるいはドリブルばかりするので回りが「おいパスしろ、パス」と声をかけると次にはまたドリブル…。「だから彼は伸びたんだ」とペトロヴィッチも話していました。


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